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15歳の一人の少年が、初めて足を踏み入れた異国の地、日本。45年後、かつての少年はその日本で、タイ王国特命全権大使の使命を終えようとしています。
少年の名は、シントン・ラーピセートパン氏。
まるで日本に呼ばれたような数奇なタイミングで重職に就き、コロナ禍ですらその柔らかで、ユーモアセンスに富んだお人柄で、 会う人たちを癒してくれた大使です。
また、シントン大使と言えば、通訳さんが束になってもかなわない流暢すぎる日本語で知られています。自分の意志を日本語で、感情や細部にいたる部分まで正確に伝えられる駐日タイ王国特命全権大使は唯一無二の存在。日タイの交流に、これほど心強い存在はないでしょう。
それもそのはず。現在のタイ王国特命全権大使としてだけではなく、参事官や公使としての日本赴任を入れると13年、更にタイ政府の奨学金を受けた10年半の留学期間を入れると、約23年間以上、日本で生活。
他国の赴任も入れると、タイで生活した時間と日本で生活した時間がほぼ変わらないというから驚きです。
日本の政府関係者やタイ関係者から慕われ、親しまれてきたシントン大使が、2023年9月末に定年退職でタイに帰国されることを聞きつけた『タイランドハイパーリンクス』。
ご帰国前にぜひお話を伺いたいと、在京タイ王国大使館にかけつけました。
<取材 2023年9月14日(木) 在京タイ王国大使館>
ーー講演や他媒体でのインタビューでは真面目なお話が多いと思うので、タイ好きが集まる「タイランドハイパーリンクス」では、ある程度ぶっちゃけたお話が伺えればありがたいと思います。
定年退職でご帰国される前に、シントン大使のこと、シントン大使がいる間に日本で実現させたことなど、根掘り葉掘りお聞かせいただきたいです。
シントン大使:結局帰っちゃうんでしょ?って思われるだけじゃないの(笑)?
ーー(爆笑)いきなり自虐ですか。今日はよろしくお願いします。
ーー日本人と同じ感覚で日本語が話せる駐日タイ王国特命全権大使は後にも先にもシントン大使だけだと思うんですけど。
シントン大使:タイはそうかもしれないですけど、他国の大使では、もっと日本語がうまい大使もいましたよ。安倍元総理は毎年、日本語が話せる大使を首相官邸に招待してくださる会合を行っていたんですけど「ああ、負けた」と思うほど上手い大使がいました。
もうロシアに帰っちゃったけど、ロシアのミハイル・ガルージン元駐日ロシア大使は、凄く上手でしたよ。彼はロシアがまだソ連の時代に日本に留学して、4回も駐在してるんですよね。今は北京に行ってしまったけどピーター・タン元駐日シンガポール大使もとても上手でした。
ーーシントン大使の場合、日本語が上手いだけではなく、スピーチでいつも絶対に何か笑わせようとするポイントを入れてくるじゃないですか。
シントン大使:真面目な内容を話し続けることが苦手なので(笑)、ちょっと面白いことを入れてみようかなー…と思ってしまうところがあります(笑)。
ーー大使は「間」を使うことがとてもお上手ですよね。ギャグを入れる前とか、大事なことをいう間の取り方がシャイな日本人より上手かもしれないです。
シントン大使:いや、それは…何を言うか忘れて、時間を置いているかもしれませんねえ(笑)。
ーーネイティブな日本語が身に着けられるコツは何だと思いますか?
シントン大使:子供のころから勉強することが、一番良いんでしょうね。僕の息子たちは、僕が初めて日本に赴任した2002年に、小学生3年生と1年生だったんです。まだ日本語ができない状態で、日本の区立の学校に入れました。
半年もしないうちに2人で日本語で会話していましたからね。やっぱり若いうちの言語学習に勝るものはないと思います。私も入れて3人で日本語で話しているから、うちの家内も簡単な日本語のコースを勉強しはじめたんですよね。でも、特に助詞が難しいらしくて、◎◎は××だ、の「は」の部分はどうして「に」ではなく「は」が入るのかと。
息子たちは「わからないけれど、でも、ここは絶対にこれが入る」って言うんです。子どもは言葉のルールなんて、どうでもいいんですよね。自然に頭に入っちゃう。でも、大人になるとまず理由(笑)。
ーー私もタイ語を少し習った時は「なんで?」ばっかり聞いていました(笑)。
シントン大使:僕は中学校を卒業して、日本で最初に日本語学校で外国人のための日本語を1年半勉強してから日本の高等学校に入学したんですけど、外国人のための日本語って「これは本です」「私はタイ人です」みたいな日常は使わないけれど、正しい文法に沿って勉強するじゃないですか。
過去形、未来形、否定形とか、ルールを覚えながらことを勉強しても、その後入学した高校ではクラスメイトの話している言葉がさっぱりわからなくて。
結局、一番大切なのは、普通の高校で「国語」を学んだこと。古文漢文や、生物、化学、歴史まで、国語を使って学べたことで、自然な日本語が身についたんじゃないかなー、と思います。
ーー古文漢文なんて、日本人が日本語で勉強しても、難しくて投げ出したくなりますけどね。
シントン大使:もちろん「あー、難しいなぁ」とは思っていましたよ(笑)。
ーー中学卒業と同時に来日した際は、初めての海外ですか?
シントン大使:そうです。初めての飛行機(笑)!
ーー(笑)。
シントン大使:僕は田舎の出身なんですよ。だから余計気持ちが高揚しました。
ーーチョンブリー県のご出身ですよね。
シントン大使:そうです。中学までチョンブリー県でした。パタヤで有名な県ですね。バンコクから遠くはないです。
ーー日本に来るきっかけとなった奨学金というのはどういったものなんでしょうか?
シントン大使:丁度そのころ、兄がチュラロンコン大学の医学部で勉強してて「タイ政府の奨学金の公募があるみたいだよ、受けてみたら?」って教えてくれたんです。5人限定だったんですけど、試験を受けて、無事にその5人の中に入ることができました。
僕の家は裕福な家庭ではなかったので、タイ政府の奨学金で、しかも外国で勉強ができるなんて「もう、行くしかない!」っていう状況でした。当時のタイは一家族の子どもたちが多い時代で、僕も8人兄弟だったんです。余計な学費はかけられないですよね。
ーー8人!?
シントン大使:その奨学金はよく考えられていて、他の国にも留学できますが、高校生から留学できるのは、日本だけだったんですよ。他の国へ留学する場合は大学生からでした。
タイ政府は当時から日本が重要な国だと考えていて、日本の言語は難しいということもあって、学ばせるなら早い段階から日本に送らないといけないと判断したようです。
ーーすごく恵まれた制度ですよね。
シントン大使:ただ…この奨学金留学制度は日本の文部科学省の国費外国人留学生制度とは違って、かなり厳しい条件があるんです。
タイ政府から奨学金が出るということで、税金です。帰国後は必ず公務員になって国民に税金を還元できるよう、タイ政府のために働かなければいけないという留学制度だったんです。
ーーえっ?そうだったんですか?
シントン大使:留学した期間の2倍、公務員を続けなければならず、僕の場合は10年半留学だったから21年以上、タイ政府に仕えないといけませんでした。例えば、留学して帰国しても公務員にならない場合は、留学でかかった費用の3倍返金しないといけなくて、とても返せない(笑)。
ーーさ、3倍って…(笑)。何の基準なんですかね?
シントン大使:3倍ならとても返金できないから、公務員になるしかないでしょう(笑)?今はそんな束縛があると留学する人はいないから、制度自体なくなりましたけどね。
ーーそうですよね。まだ子ども時代に日本に来て学んでいたら、大学を卒業する頃には、将来の夢も得意分野も他に出てきちゃいますよね。
ーーシントン少年は、いきなり異国で1人暮らしをしたのでしょうか?
シントン大使:そうなんですよぉ。
タイ大使館の中に奨学金で来た学生の面倒を見る「学生部」というセクションがあるんですが、留学生同志は一緒に住ませないという方針があったんです。タイ人同士、一緒に住むと、絶対毎日タイ語を話すから、という理由です。それから入学した高等学校の方針で、留学生は同じクラスにさせずに、完全に日本人のクラスに1人、入れられました。
ーー15歳でそれは大変でしたね。
シントン大使:寮もなくて2万2,000円の風呂なしのアパートを借りました。銭湯に行ったり、コインランドリーにいったり、冷暖房もなくて、冬はストーブを買って過ごしました。夏は扇風機(笑)。
周囲にはまだコンビニがなく、アパートの近くにはスーパーすらないんです。
八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんをまわらないと、食材が揃わないんですよね。外食もしたけど、自炊も多かったです。
ーーどんなものを作って食べていたんですか?
シントン大使:…国籍不明な料理…(笑)。
炊飯器を買って、ご飯を炊くでしょう?おかずはスープ一品、炒め物一品。当時はまだナンプラーも売っていない時代でした。
ーー今は大きなスーパーなら買えますけど、ちょっと前まではアジアの食材は手に入りにくかったですよね?
シントン大使:もし誰かに食べさせたら間違いなく「まずい!」と言われる料理です(笑)。
同じ奨学金の仲間が近くに住んでいたので、月に1回くらいかな?
「今回はお前の部屋だね」って言って集まって、ご飯を食べることがありました。集まる部屋の友達が一番多く料理を作って、僕らも作った料理を持って行って集まる。そうすると料理のバラエティが増えるという…。
でもみんな料理が下手で、美味しくないんです(笑)。
ーー今の高校生たちに聞かせたい凄まじく、苦しい生活ですね。
シントン大使:ね(笑)?
ーーその後は横浜国立大学に進まれたと思うんですけど、制限の多いその留学でも、大学は自分で選べたんですか?それとも最初から決められているものなんですか?
シントン大使:大使館の学生部に相談しながら、公務員になるなら経済がいいかなと自分で選びましたね。あとはあまり東京から離れたくなかったこともあって、横浜国立大学にしました。
ーー大学生活は少しは楽しめましたか?
シントン大使:横浜と言っても常盤台という場所に学校があったんですよね。海から遠くて当時は山ばかりの場所だったんですけど、留学生会館があって、高校生の時のアパート生活より、住環境はかなり良くなりました。家賃は当時7,000円か8,000円くらい。冷暖房完備、ユニットバス、リネンも毎週1回交換してくれるし、洗濯機を使うのも無料。トイレットペーパーも定期的にもらえちゃう。高校時代より2~3万円は浮きましたね。
ーーおお、いいですね!
シントン大使:ただ、大学院に進む場合は、アパートを借りろと言われまして、また、冷暖房がないアパート(笑)。でもその時点で日本在住経験が8年だから、15歳でアパート1人暮らしの時よりは、何の不自由もなく感じました。
ーー大変な留学を経験した4人の仲間ですが、今もお付き合いはあるんですか?
シントン大使:もちろん。今もグループLINEがありますよ。
ーーすごい!もう随分長い友達だし、苦労を分かち合った友達ですね。
シントン大使:先ほども話した通り、僕たちは公務員にならないといけない奨学金を受けた留学生だったので、僕は外務省で、1人は工業省で、チュラロンコン大学の教授で、あとは商務省、財務省。
ーーエリートばかり…。
シントン大使:エリートばかりというか、タイの税金を使って海外で勉強させていただいたので、タイのために働かないといけない人ばかりです(笑)。
ーー初めて日本人の友達ができたのはいつですか?
シントン大使:近くの席に座っているクラスメイトが最初の友達でした。「遠足の日は、うちのお母さんに君の分のお弁当も作ってもらって、持ってくるよ」って言ってくれた優しい子で、その子の家に遊びに行ったこともあるんです。実はそこで凄いカルチャーショックを受けまして。
ーーえ?なんでしょう?
シントン大使:日本人の男性、ぜんっぜん動かない。
ーー(笑)うちの実家もそうでした!
シントン大使:招待してくれた人の家の批判をするのも何なんですけど(笑)、お父さんは新聞読んでて、挨拶だけ。お母さんだけがお茶出しながら「どうぞ、どうぞ」って。
食事もいただいたけど、みんなお母さんに用事を言いつける。お父さんだけならまだしも、ご飯のおかわりの時に、僕の友達が無言で茶碗を出すんですよね。お父さんと同じ行動をしているんだと思います。
タイ人だったらお母さんを手伝うし、おかわりは自分で取りに行くから本当にびっくりしました。
ーーお恥ずかしい限りです。
ーーシントン大使は23年間日本に住んでいるわけで、他の国の赴任の年数も入れると、日本に住んでいた時間の方が長いのでは?
シントン大使:そうですね。5歳くらいまでの記憶ってほぼないでしょう?だから記憶だけでいうと、日本での生活が一番長く感じます。
ーー国籍が違うだけで、ほぼ日本人ですよね(笑)。2022年に初めて大使館で大使をお見かけした時、にこやかに日本の職員の方と日本語で話していたので、失礼ながら大使ではなく、日本人の職員の方だと思ったんですよね(笑)。
シントン大使:えっ?そうなの(笑)?でもまあ…そうなっちゃったんですよね(笑)。
帰国してタイの外務省に入った時も、当時の駐日大使は、僕に日本に赴任してほしかったみたいなんですけど、タイ側としては「日本ばかり知っていても使えない」と思ったみたいで、ロサンゼルスのタイ総領事館に赴任を命じられました。
ーーいきなり華々しい社会人デビューですよね。超花形。
シントン大使:実は僕、外務省の中では英語のランクが下の方だったんですよね(笑)。タイの外務省の人たちはイギリス留学やアメリカ留学を選んだ人が多いので、英語がうまいんですよ。タイ外務省は英語の勉強も兼ねてアメリカに赴任してほしいと。
ーー日本語を集中的に勉強していたら英語は頭に入らないかもしれないですね。英語が苦手というところも日本人っぽい(笑)。
シントン大使:ただ残念なことに大きな誤算がありまして…実はロサンゼルスって、当時海外では最も大きなタイコミュニティがあったんですよ。ロス市内に10万人、カリフォルニア州で30万人もタイ人がいたんですよね。
結局その環境で総領事館にいると、ほとんど英語を使わないんですよ(笑)。
ーーえっ?そうなんですか?
シントン大使:日本の大使館もそうですけど、タイ人のための日本の区役所や市役所みたいな役割が総領事館なんです。4年間使った言葉はタイ語ばっかり(笑)。
英語は勉強できなかったけど、領事の仕事はその4年間で理解できたのでいい経験でした。タイに戻ったらまた3回も日本に赴任することになっちゃったんだけど(笑)。
ーーなっちゃった(笑)。
ーーシントン大使の経歴を拝見しますとね…大震災やこの前の新型コロナウィルス感染症拡大のような、未曾有のことが起きる前年に赴任してしまうという運命にありますよね。
シントン大使:実は日本だけではなくて、ロサンゼルス大地震(ノースリッジ地震1994年1月17日)も前年に赴任だったんですよ。
ーータイは大きな地震がない国だからさぞや驚かれたでしょう?
シントン大使:その時まだ子供が3ヶ月で大変だったんですよ。本当はロスもカリフォルニアも地震が多い国だったのに、地震が多い都市に赴任するという事をすっかり忘れていて、準備もしていませんでした。早朝に大きい地震が来て、家内はとても怯えていました。
このちょうど1年後に阪神大震災(1995年1月17日)が、同じく早朝にありましたよね。
ーー阪神大震災が落ち着いた頃、その偶然の話が話題になりました。
シントン大使:阪神大震災の時も偶然、チェンマイ大学の医学部で仕事をしていた兄が、兵庫県立こども病院に研修に行ってたんです。研修が終わって1週間後にタイ帰国のタイミングで、夫婦2人で日本観光でもして帰ろうと、義姉が夫のである兄の帰国に合わせて神戸に入ったんですよ。
ーーえ?地震の日ですか
シントン大使:そうです。ちょうどその朝、義姉は関空に着いたんですよ。
僕はまだロスにいて、そのニュースを知ったんだけど「あれ?義理のお姉さん今日、神戸じゃなかったっけ?」って慌ててタイに電話したら、やっぱり連絡が取れない。最終的に兄は研修先の病院、義理の姉は空港で無事が確認できました。大阪の総領事館に僕の知り合いがいたので、2日後に兄と義姉がそこで落ち合いました。旅行どころの話ではないので、そのままタイに帰りましたけど。
その後は、一度目の日本赴任は2002年で今度はタイ側のプーケットで津波。2010年の日本赴任は2011年に東日本大震災、そして2019年赴任の翌年には新型コロナウィルス感染症拡大です。
ーー本当に不思議ですね。故郷のタイや、最初の赴任地でも災害の前に呼ばれているような…。身内の方が遠い日本で被災するのも、数奇な運命ですよね。
シントン大使:大使としての赴任は2019年10月末。丁度徳仁天皇の即位の礼があった時期でした。その際「饗宴の儀」で各国の大使が天皇皇后両陛下にお祝いの言葉を申し上げるんですけど、日本のしきたりでは「信任状捧呈式」で天皇陛下から「あなたは日本の全権大使ですよ」と任命されない限り皇族に会えないことになっているんです。
でもこの時期は即位の礼の行事が多いのでそのまま「饗宴の儀」に参加していいですよ、って言われましたね。「信任状捧呈式」も遅くなって2020年3月17日になりました。
ーーええっ?もうコロナ禍と呼ばれる時期に特命全権大使任命じゃないですか。
シントン大使:まだ僕の時期はラッキーだったんですよ。緊急事態宣言のような行動制限が出ていなかったことで、検温やアルコール消毒はあったけど、まだ天皇陛下と握手ができたし、マスク着用もなく話もできました。
ただ、通常より気持ち2歩下がって陛下とお話してくださいという注意事項はありました。
僕の後「信任状捧呈式」を受けた大使の話では、記念の写真はみんなマスク!
ーーせっかくの記念なのに切ないですね。
シントン大使:僕の時は2歩下がって会話できたけど、4歩も下がって話してください、って言われたそうですよ。でも4歩も下がると、叫ばないと聞こえないから、逆に危ないんじゃないか?って思っちゃいますよね(笑)。
シントン大使:日本の「信任状捧呈式」は皇居の迎えが来てくれるんですけど、東京駅から馬車列で皇居まで行けるんですよね。
ーーわあ、素敵ですね。
シントン大使:御者の方も、こんな(身振り手振り)ふわふわの帽子を被って、昔にタイムスリップしたような、本当に素敵な気分になれるんですよね。
日本は数少ないすばらしい伝統を残す国ですよ。各国の大使が馬車列で迎えられ「信任状捧呈式」を天皇陛下に受けるという…。そのあたりはイギリスと同じですね(ほかにもスペイン、オランダ、スウェーデンなどで「信任状捧呈式」に馬車列がある)。
これも2020年3月17日の「信任状捧呈式」は馬車に乗れたんですけど、それ以降は車になりました。馬車列をすると、人が集まっちゃうでしょう?
ーータイにも王室がありますが駐タイ大使たちは「信任状捧呈式」の時、馬車で王宮に王様に会いにいけないのでしょうか。
シントン大使:…(笑)。いやぁ、タイはバンコクの渋滞がひどすぎますからね。馬車で移動したら危ないでしょうね。
ーーバイクが突っ込んできたり(笑)、いつまでたっても大使が王宮に到着しなかったり(笑)。
シントン大使:(爆笑)…。タイも王室の歴史を考えると、馬車を使うと素敵だろうなあとは思いますけどね。タイの外務省から馬車出せば、王宮までは遠くないんですけど…ね(笑)。日本やイギリスのように大使を迎える馬車がないのかもしれないです。
ーー私、実はずっとシントン大使にお伺いしたいことがありまして。タイ王国大使館と言えば、毎年恒例のタイフェスティバルじゃないですか?
その中でも伝説のタイフェスティバルが2011年震災の年の10月に行われた靖国神社だと思うんですよ。
シントン大使:あー…はいはいはい。
ーー靖国神社は国によってはスポーツ選手が立ち寄ってSNSで上げただけでも削除しろと命じられたり、ご存知の通り、参拝するだけでも抗議する国があるセンシティブな部分です。でもなぜタイはタイフェスをあえて靖国神社でやってくれたんだろうってずっと思っていました。
逆に靖国神社側的にも「えっ?なんで他の国のお祭りを神社の敷地内で開催するの?」って普通は思うはずなんですけど(笑)、どうして開催できたのか、本当に不思議で不思議で。
私は戦争で祖父が亡くなっていて、骨が戻って来ていないので、靖国神社にお参りするようにしていたんですよね。
いつかシントン大使とお話できることがあったら絶対に聞いてみたいと思っていたんです。
シントン大使:そうだったんですね。
本当は2011年も5月に代々木公園でタイフェスティバルを行う予定だったんですけど、震災から間もなくてお祭りどころではなかったじゃないですか。だから「延期」と言いながらも中止にしようと思っていたんです。
でも2011年も後半に差し掛かると、今度は沈んだ雰囲気を明るくしたい、元気づけたいという空気になって来たでしょう?
当時僕は公使だったんですけど、当時のウィーラサック大使が「我々もタイフェスティバルをやることで、日本を元気づけよう!」と動き出したんですね。
いつもの代々木公園はもう予定が埋まっていて、職員全員で他の場所を色々探しました。
丁度そのころ、今の目黒の大使館が老朽化して建て替えることになって、それで九段下に仮事務所と言う形で移転していた時期だったんです。
そんな時、ウィーラサック大使が「靖国神社でタイフェスティバルできそうじゃない?」って言い出したんですよね(笑)。
ーーその発想が凄すぎる…。
シントン大使:それで靖国神社の宮司さんにアポ取ってもらって、話に行ったんですよ。最初は「この人たちは何を言ってるんだろう」っていう雰囲気だったんですけど(笑)。
ーーその瞬間を見たかった(笑)。いや、普通はそうなると思います(笑)。
シントン大使:でも2回目のアポだったかなぁ?「詳細を聞かせてくれたら上の方に聞いてみましょう」って言ってくれたんです。で、結局「いいですよ」って言ってくれたんですよ。
ーーへぇえええ‥‥(感動)。
シントン大使:靖国神社がとてもセンシティブな場所であることは、もちろん我々も知っていました。例えば、タイフェスティバルのオープニングセレモニーに招待しても、絶対来ない国の大使がいるだろうな、とか考えが巡りましたよ。
でも、ウィーラサック大使が「ここがいい!」って言うんですよ。それが…どうも御霊祭りを見たらしくて「ほら、お祭りやってるよ!」って(笑)。
でも靖国神社からは「それはこちらの祭事で、外部のお祭りを靖国神社内でやったことはないんですよ」って言われまして(笑)。
ーーいやー…本当に前代未聞ですよね。当時「嘘でしょ?なんで?どうしてできるの」って相当話題になりましたからね。
シントン大使:その後なぜかスムーズに話が進みまして…。
タイフェスってご存知の通り、屋台やステージを作るじゃないですか。靖国神社って本殿の前の敷地の真ん中に銅像があるでしょう?九段下から上がってきたときにここにステージがあると、すごくいい!と考えながら、計画書を作って提出したんです。そしたら「いや、それは…」と。
ーーまさか、大村益次郎像のことでは…。益次郎さんもびっくり。
シントン大使:ステージ自体が無礼なことなのかな?と思ったら、違うんですよね。靖国神社ってもともと御霊に奉納する芸能が多い神社で、ステージは神殿に向けてほしいと。そのことで御霊のための奉納になると、宮司さんだったのか、神主さんがおっしゃられて。
大使は「こうしたい、ああしたい」って最初だけ打ち合わせに来たけど、後は全部僕が対応して(笑)。まぁ、日本語ができるっていうのもあったんですけどね。
ーー立役者は当時公使だったシントン大使だったんですね!凄い裏話が聞けました(笑)…。
シントン大使:印象的だったことは、靖国神社側の一人が「タイのお祭りだから、靖国神社に祀られている御霊が懐かしく思って、楽しんでくれるんじゃないかな」って言ったんです。
ーーバンコクにも日本の基地があった時代がありましたからね。インパール作戦の野戦病院跡地がチェンマイのお寺にありますし、架空の話ではありますがタイの「クーカム」も赴任していた日本兵の話で歴史的背景にはそういったことがありましたからね。
シントン大使:そうなんですよ。靖国神社の遊就館の中に、機関車があるんですけど、実はタイの泰緬鉄道を走っていたものなんです。
ーー 靖国神社でタイフェスティバルが開催されることに、一般の人から反対はなかったのですか?
シントン大使:もちろん反対もありましたよ。当日ご年配の方がやって来て「何だこりゃ?」って。イベントの担当者が「タイフェスティバルですよ」と答えたら「なにやってるんだ、けしからん。この神聖な場所で!」って怒られて、僕も日本語ができるので対応したんですけど、怒られて。
ーー私は当時からタイが大好きで、タイに通っていたので、もう、感動して声になりませんでした。大鳥居の前にトゥクトゥクが置いてあった時には固まりましたよ。来場したタイ人の皆さんは、本殿にお参りしてくださっているし、ハッピーちゃん(タイのゆるキャラ)も歩いていたし(笑)。
シントン大使:靖国神社のタイフェスティバルは、代々木公園と比較するとスケールはかなり小さくなってしまいましたけど、その年だけは外交団の方を呼ぶのも少し控えたと思います。確かあの年はタイでも大きな洪水があって、パンケーキさん(タイのスター)が募金活動して歩いたり、両方で助け合おう、という風潮もありましたね。
東日本大震災時の寄附は、我々タイの歴史の中でも一番義援金が高かったと記憶しています。
ーー日本へのタイからの寄附は確か世界第3位でしたよね?
シントン大使:そう。もちろん、これはタイ政府だけのものではないですよ。民間からの募金も多かったです。一番衝撃を受けたのは、スラム街の子どもたちまで募金活動をして、日本を助けようとしたこと。
ーーあの時は本当にタイって凄いなって思ったんです。今思い出しても泣けてきます。
シントン大使:でも2011年後半は今度はタイで大洪水。日本の各方面から沢山の支援をいただきました。中には現金書留で大使館あてにお金を送ってくれた方がいて、今もそのメッセージが忘れられません。
「自分は日本人で東日本大震災とは関係ないけれど、タイの人たちが本当にたくさん東北を応援してくれたので、今度は日本人として何かがしたい」と。
ーータイと日本の関係を強固にしていただいてありがとうございます(泣)。
シントン大使:まぁ、僕は何にもしていないけど…。
ーー(笑)。
シントン大使:タイと日本の関係って特別ですよね。他の国には見られないほど、親密です。タイと日本の我々の先祖たちが築き上げてきたものですからね。公式には2023年9月26日で日タイ友好136年となっていますけど、貿易関係でいうと、500年から600年、山田長政の時代から続いています。日本は鎖国の時代で、制限はありましたが、沖縄の「泡盛」も琉球王国にタイ米がアユタヤのラインから入ってきて、できたものですしね。
ーーコロナ禍の行動制限がなくなった後に、タイのイベントがすごい勢いで増えていて、後援しているイベントも多いですよね。
シントン大使:大使館後援のイベントだけではなくて、入って来る書類を見ると毎日タイ関係のイベントが行われています(笑)。
タイからBLの俳優さんたちがどんどん来日するし、日本の方から招待している場合もある。それに来日が増えすぎて、時期がダブるくらい多いんですよね。
合わせて日本の入国制限が解除されてから、タイの要人の来日も急増したので、大使館は大忙しでした。
ーーシントン大使の時代でタイ王国大使館の印象が随分変わりました。
タイフェスティバルやタイドラマフェスのオンライン開催、そして大使館主催のタイフェスティバルも民間と組むことでバラエティに富んだイベントになったし、一気にWeb化、エンタメ性、柔軟性が開花したように思います。
シントン大使:たまたまでしょうね。アイディアを職員から上げてきてくれるので任せています。僕は古い世代の人間ですから、TikTokやInstagramやTwitterはわからないし、このコンテンツはFacebookが向いている、とかTwitterが向いている…とか、みんな職員が考えてくれたし、教えてくれました。
ーー大使が自分で仕切るのではなく、タイの文化に詳しくて若い職員の方たちにまかせることで、タイのカルチャーイベントが増えて、柔らかい印象になったんじゃないですかね。
2023年のタイフェスティバルはG-Yu Creativeとの官民一体のイベントが印象的でした。
シントン大使:正直に言うと、タイフェスティバルで民間と組むのは最初は大変でしたよ。とにかく出演アーティストが多かったでしょう?
ーーびっくりしました(笑)。これまでタイフェスティバルをずっと取材させていただいているので、こんなに出演者が多くてどうまわすのか?と(笑)。
シントン大使:タイのBLドラマの俳優さんたちが大人気だから、たくさん出演していただいた方が良いでしょうけど、タイフェスティバルはタイの芸能人を見るためだけのイベントではないですからね。まずはそこからの話し合いからでした。
根強いタイフェスティバルのファンの皆さんから言うと、人気俳優やアイドルだけがやってきて、ファンと交流するだけの会ではないし、出店しているタイレストランから見ても、ステージよりもパッタイが一つでも売れた方が良い、ビールが1本でも売れた方が良い、となります。
G-Yu Creativeさんとは、何度も話し合いを重ねました。
ーーあのステージやタイフェスの会場作りは大使館とG-Yu Creativeさんと話し合って折衷した結果だったんですね。
シントン大使:僕ではなく大使館の担当の職員の皆さんが一番頑張っていました。まあ、来年はどんな形になるのかまだわかりませんが、僕はもう関係ないんですけどね(笑)。
ーーもう!関係ないなんて言わないでくださいー(笑)。2024年のタイフェスティバルは、大使は見に来ないのですか?
シントン大使:いや、だって、まず自分がタイで何しているかもわからないですからね(笑)。
ーーシントン大使は9月末には定年退職で帰国されてしまいますが、先ほどもご自身でおっしゃっていた通り、まだ先の予定は何も決まっていないのですか?
シントン大使:いや…まだなーんにも決まっていないんですよね。
僕はゆっくりしたい気持が強いんだけど「ゆっくりできないよ!」「絶対色々な所から声がかかりますよ」ってよく言われるんですよ。まあ、声がかかった時は、その時に考えますけどね。
ーー人生の大半を日本で過ごして、これだけ日本のことを理解してくださっている方なので、日タイに関わることを続けていただけたらいいなあって思ってしまいます。
シントン大使:僕はそれくらいしか脳がないので(笑)、お声がけいただくとしたら日本に関わることでしょうね。
大使時代もコロナ禍で2~3年は何もできませんでしたから…仕方がないこととは言え、今思えば悔しいですよ。
でも逆に…何もできなかったことをすべてコロナ禍のせいにできるんですよね(笑)。
ーーえ?何、言っちゃってますか(爆笑)?
シントン大使:いや、だって、コロナ禍がない状態で、何もできなかったら「無能な大使だったな」って言われちゃってますからね。まあこれで良かったのかなー、と(笑)。
ーー(笑)…。
ーー帰国してせめて数日でものんびりするくらいの時間はあるんですよね。旅行をするとか。
シントン大使:僕が言う「ゆっくり」はずっと家でごろごろしたいなっていう意味なんですけど(笑)、家内はタイ国内旅行をしたいって言うんですよ。
ーー奥様もだいぶタイに戻られてないですもんね。
シントン大使:そう。でもまず一番最初にしなければいけないのは家の整理と掃除(笑)。家内がチェンマイ大学出身で、チェンマイに住みたいって言っていたこともあって、チェンマイに家を買ったんですよ。もう何年も帰ってないんだけど、先日妻だけチェンマイの家を見に行ったら、カビが生えていたどころのさわぎじゃなくて、階段の踊り場の丁度日の当たるところにキノコがいっぱい生えいたそうなんですよ(笑)。
ーーキノコ(爆笑)!
シントン大使:まずは掃除しないと家に住めない環境だから、帰国したらまず掃除をします!
ーー今月末で駐日タイ王国特命全権大使の役目を終える訳ですが、日本の皆さんにメッセージをお願いします。
シントン大使:他の国と比較すると、タイと日本の関係はとてもユニークです。
王室と皇室があるというのも同じだし、歴史的に繋がりがとても深い。
いつの時代も関係が良好でしたし、あらゆる分野の関係も親密です。
日本の大手企業がたくさんタイに入ってきているし、タイ人も日本が大好きで、みんな日本に遊びに行きたがるし、日本の方もタイ旅行に来てくれる。
それに日本人はタイに働きに行ったら、他の国だと大変だけど、タイだとそんなに苦労しないと言ってくれます。
タイと日本は人と人の交流に特別な関係があるように思います。
もともとタイ人は日本カルチャーが大好きで、テレビ番組や音楽、マンガ、アニメなど日本のことを身近に感じていました。
今では日本人もタイ料理だけではなくて、タイのドラマを見て、タイの音楽も聴いてくれる。お互いに悪い印象を持ったことは歴史上一度もないのではないでしょうか?
ここまでスムーズな二国間の関係はなかなかないと思います。
…
と、いうわけで、別に大使がいなくてもスムーズに両国間の関係はうまくいくと思うんですけどね!
ーー大使!大使がいなくても、は余計だと思うんですけども~(笑)!
シントン大使:(笑)…。後任の大使も日本は重要な国だと考え、日本を大切にする政策をとるでしょうし、もっともっと日本の方がタイのことを理解できるようにしていくと思います。
僕もタイに帰国しても、長く暮らした日本のことを大切に思い続けます。
ーー長い時間ありがとうございました!そして、長い間日本に関わってくださり、ありがとうございました。
ぶっ通しで2時間以上、気さくに話してくださったシントン・ラーピセートパン駐日タイ王国特命全権大使。
まじめなお話の部分も、場を和ませるよう時折ジョークを挟んだり、自分を落としてボケてみたり、こちらが日本人のお話上手な方と話しているように感じてしまうほどの、日本語トーク術を見せつけてくれました。
少年時代に初めて降り立った国、日本で一度目の人生の節目を迎え、帰国するということ自体が、まるで奇跡のようではありませんか?
柔らかく、あたたかく、そして必ず笑いを与えてくれる、チャーミングなお人柄は、タイ王国そのものであるような錯覚も覚えました。
大使は何度も「自分は何もしていませんよ」と謙遜していましたが、昨今のタイの芸能・文化の交流は、間違いなくシントン大使の代で培われたもの。
自分の判断ではなくタイ王国大使館職員の皆さんの「今のタイ」を届ける力や、SNSなどのツールを使ったアイディアを「何でもやってみたらいいよ」と任せられる度量の深さが、今の日タイの文化交流を作り上げたに違いありません。
タイに帰国してもまた日本と関わっていただけたらうれしいですね。
【取材・文:吉田彩緒莉(Saori Yoshida/Interview・text)】
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シントン・ラーピセートパン
สิงห์ทอง ลาภพิเศษพันธุ์ Singtong Lapisatepun
1962年12月13日 チョンブリ県生まれ
1983年 東京学芸大学附属高等学校卒業
1987年 横浜国立大学経済学部卒業
1989年 横浜国立大学大学院修士課程修了
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