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(左から)松沢さん、森さん、池田ん、田中さん、滝澤さん、黒川さん
バンコク・トンロー通りにある「ホテル・ニッコー・バンコク」。そこに併設された「銀座トンロー」3階に、ギフトショップの「MORI」があります。タイならではのお土産が買えるとして、在住日本人や観光客に人気のお店です。
「MORI」オーナーの森妙子さんのお人柄で、いつもタイ在住大ベテランの方々が集まって話を弾ませています。2025年6月某日、皆さんが集まっている所へお邪魔し、昔のバンコクについて話をお伺いました。その後編をお届けします。
バンコク昔話(前編)~タイで暮らして50~60年の日本人が語る、始まりの頃

--当時の交通事情はいかがでしょうか?
池田静子さん(84歳):私が来た当時はまだ人が裸足で歩いていましたよ。靴を履いてる人が珍しい。たまにいるけど、それでもゴム草履でしたね。車なんてほとんど走っていませんでした。だから信号もなかったですね。舗装なしの砂利道で、水牛を使った牛車が通っていましたね。道の両側にはクロン(運河)が流れていて、手漕ぎの船が行きかってました。箱型のヨーロッパ式のタクシーが一応ありましたね。
田中房子さん(77歳):ボロボロで床が錆びて穴が空いていましたよ(笑)。雨季に冠水した場所を通ると、その穴からジャボジャボ水が入ってくるんですよ。
森妙子さん(80代):このトンローのあたりも牛車が走っていましたよ。
池田さん:トンローも3分の2はクロンでしたね。
松沢珠枝さん(80歳):私が来た1968年には舗装され道路がきれいになっていました。多分、ベトナム戦争の影響だと思います。私はタクシーを使ったりバスを使ったり。
池田さん:ヤワラー(中華街)に都電が走っていましたね。
松沢さん:一時期、自分で運転をしていたのです信号がないですから大変で。ロータリーが特に苦手でしたね。

森さん提供
--現在は大都会となっているバンコクですが、何時頃から発展し始めたのでしょうか?
田中さん:私は保険の仕事をしていたので、いろいろな会社さんを回っていました。感覚として1982年頃から日本の投資が急激に加速、工業団地に日系の工場がどんどん出来てきました。そこらへんからタイの経済の活性化し、街も変化していったと思います。車も増えて、新車が15万バーツぐらいでしたかね。当時は中古車が流通していなかったんですよね。もともと車がなかったから。トヨタや日産の車が飛ぶように売れてましたね。それに連れてバンコクの街中もどんどん発展して行きましたね。
--車がまったく通っていない状況だったのにすごい変化ですね。現在のように渋滞がひどい状態になり始めたのはいつぐらいなのでしょうか?
田中さん:1990年前後ぐらいからですかね。
--現在、在留邦人は約7万人で大変多くの日本人がタイで暮らしていますが、当時はいかがでしたか?
黒川かほるさん(73歳):50年前くらいは日本人会の登録者数がまだ2桁でしたね。
田中さん:さきほど説明した日系企業の進出が加速した頃、急激に在住者が増えましたね。
黒川さん:急激でしたね。覚えているのが、娘が日本語学校の中等部の最初の卒業生だったのですが、その年の卒業者数は8名でした。でも、年子の息子が翌年卒業する時はそれが20名に増えていましたから。
田中さん:デパートの進出も続きましたね。大丸があって、東急デパートが出来て、そごうが出来て、次に伊勢丹が出来て、ラチャプラソン交差点の周りに日系デパートが固まっていました。
--日本企業の進出の一方、反日運動もあったそうですね?
池田さん:あれのきっかけは、大丸の前でボクシングの興行(*1972年)をやったんですが、それをショーみたいな仕立てにしたのでタイ人の反感を買ったんです。
松沢さん:ムエタイはタイの国技で、それをお遊び風にやちゃったのでタイ人は怒ったのです。それで不買運動とかになちゃったんです。
田中さん:当時の首相の田中角栄がバンコクに来たんですが、宿泊していたエラワンホテルの辺りは騒然としていましたよ。
滝澤義勝さん(80歳):危険なので車が使えず、ヘリコプターで空港まで帰ったんですよね。ちょうど、そのすぐ後に私はエラワンホテルに泊まったんです。当時、こんなタイ語の歌がありましたよ。「不買不買と言うけれど、朝はA社(日本の時計メーカー)で目を覚まし、B社(日本の電気メーカー)の電気釜でご飯を炊き、C社(日本の自動車メーカー)の車で会社に行く♪」みたいな。

踊りの講師時代(池田さん提供)
--現在はインターネットで日本の情報が容易に手に入りますが、当時はどのようにしていたのでしょうか?
田中さん:読売新聞をバンコクでも配達していましたね。
黒川さん:一か月の購読料は1100円ぐらいでしたね。当時の物価を考えるとかなり高額でした。またリアルタイムでは届かなくて半日遅れでしたね。
田中さん:あとニューズレターがありました。有料サービスで日本のニュースがずらっと並んで掲載されてました。
池田さん:タイで最初の日本語書店が泰文堂で(*1970年創業)で、そこでもニュースを紹介したニューズレターみたいなものを出していましたね。
森さん:当時、日本の情報を得るにはやはり日本人会でしたね。それもあって皆さん入会されていましたね。毎月会報と一緒に日本の最新ニュースを紹介した冊子が送られてきていたのです。
--日本のTV番組ももちろん観られなかったですが寂しくなかったですか?
黒川さん:私は歌が好きなので、毎年大晦日のNHKの紅白歌合戦を父にテープに録音してもらい送って貰い、それを繰り返し聴いてましたね。
--あ、ビデオテープじゃなくて、カセットテープですね!
滝澤さん:日本でTV番組をビデオに録画して、それをここ(バンコク)で貸し出すという店もありましたね。
黒川さん:国際電話も一苦労でした。自宅から直接日本にかけることは出来なくて、中央郵便局に行ってかけていました。それもかなり高額ですから、数回しか利用したことはありませんでしたが。
--皆さん貴重なお話大変にありがとうございました!
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[所在地]
Nikko Hotel 3rd, Floor 27 Soi Sukhumvit 55, Sukhumvit Rd, Klongtan Nua, Wattana, Bangkok, Thailand, Bangkok
[電話]
081 434 8455
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