THAILAND HYPERLINKS ไทยแลนด์ ไฮเปอร์ลิงค์ タイ旅行やタイ生活とタイエンタテイメントのポータルサイト

バンコク昔話(前編)~タイで暮らして50~60年の日本人が語る、始まりの頃

2025年7月4日 配信

(左から)池田さん、松沢さん、森さん、黒川さん、田中さん、滝澤さん

バンコク中心部にあり、お洒落なレストラントやバーなどが軒を連ねるトンロー通り。スクンビット通りから入って徒歩4分ほどの「ホテル・ニッコー・バンコク」に併設された「銀座トンロー」3階に、ギフトショップの「MORI」があります。タイならではのお土産が買えるとして、在住日本人や観光客に人気のお店です。



「MORI」オーナーの森妙子さんのお人柄で、いつもタイ在住大ベテランの方々が集まって話を弾ませています。2025年6月某日、皆さんが集まっている所へお邪魔し、昔のバンコクについて話をお伺いました。

在住50~60年の大ベテランの方々!

ーー皆さんどんなきっかけでタイでお暮し始めることになったのでしょうか?

田中房子さん(77歳):私は日本に留学していた台湾人と結婚、彼の家族がタイへ移住するのについてきました。54年前のこと(1971年)ですね。

池田静子さん(84歳):私は1961年にバンコクに初めて来ました。主人は戦前にタイで生まれた日系人です。終戦時に日本へ強制送還され、その後、ラオスのアメリカ大使館に勤務します。その主人が日本に一時帰国していた折に知り合い結婚し、ラオスへついてきました。ラオスに行く途中バンコクに立ち寄り、主人が戦前からの現地の友達を紹介するよとパーティを開いてくれたんです。それが1961年です。ラオスで暮らしていたんですが、同じ年に子供がお腹に出来て、現地には病院もなく水道もない時代で、アメリカ大使館が心配してくれて、落下傘部隊の飛行機を使ってタイまで搬送してもらったんです。そして、ミッション系の病院で出産をしました。出産後、ラオスに戻り合計3年半ぐらい経った頃、クーデーターの噂が流れ、危険だということで、子供と一緒にバンコクへ来て暮らし始めました。

松沢珠枝さん(80歳):私は1968年にタイへ来ました。その頃、日本へ留学をしていたタイ人の主人と知り合い、私も学生だったんですが、1年後くらいに結婚しました。

黒川かほるさん(73歳):1973年に結婚をするためにタイへ来ました。主人の一家が会社を経営していましたが、同時に日本語学校の非常勤講師や洋裁教室をしていました。洋裁教室は今もやっています。

滝澤義勝さん(80歳):最初にタイへ来たのは1回目の東京オリンピックの2年後(1965年)でした。まだ学生で貨物船に乗ってきました。飛行機は高いですから。シンガポールまで2週間くらいかけて船で行き、今度は陸伝いにバスや列車に乗って北上しバンコクまで来て10日間くらい滞在しました。その後、何回かタイに暮らしたんですが、最初は50年前くらいですかね、仕事のプロジェクトでタイの田舎、コラートの手前のパクチョンという所に1年半住みました。

森妙子さん(80代):「私はもう56年タイで暮らしているので、来たのは1969年になりますね。松沢さんと同じで日本へ留学していた中国系タイ人の主人と知り合いました。

エアロビクスの講師時代(池田さん提供

日本料理は地元ご飯の約15倍の価格、「大丸」の思い出も

ーー当時は日本料理を食べるのも大変だったのではないかと想像しますが、どんな物をお食べになっていたのですか?

池田さん:私はずっとタイ料理ですね。日本のスーパーもなかったですしね。日本のレストランで一番古いのはニューロードの中央郵便局の斜め前にある「花屋」(1939年創業 現在も営業中)ですね。初代は戦前にお店を開いたと、主人の両親から話を聞きました。彼らも同じく戦前からにいましたからね。

田中さん:当時、「花屋」で食事すると1人50バーツぐらいでしたね。屋台のご飯が2~3バーツの時代です。

滝澤さん:1バーツが15~20円くらいの時代ですね。

池田さん:物価で言えば、子供が3人いまして、住み込みのメイドさんを雇っていたのですが、月給が200バーツでした。

松沢さん:食材ではバーンラックに「日の出屋」がありましたね。

池田さん:「日の出屋」は現地の市場の一角にありました。豚の頭とかドンっと置いてあるような生鮮市場の中に(笑)。日本製のインスタントラーメンを売っていて、後でさつま揚げとかも売るようになりましたね。

パタヤで子供とメイドと(森さん提供)

松沢さん:あと「大丸」(1964年開店)がありましたね。

池田さん:「大丸」のオープンの日で強く覚えているのは、タイで初のエスカレーターが設置されたことですね。みんな躊躇して乗れなくて、下で動きを眺めてましたよ。勇気のある人が乗るんですが、みんなうまくいかず四苦八苦していました。あと、当時、他にデパートがなかったから現地の人には買い方のシステムが分からなくていましたね。普通のお店や屋台は店員さんが目の前にいてやり取りをしますけど、デパートは物が陳列してあって会計は別な場所ですからね。

田中さん:私の場合、主人の父親が商社マンだったので、日本食材には不自由しませんでしたね。納豆とか味噌汁、輸入物の鮭を食べてたりしました。

松沢さん:私はたまに「大丸」にあった「瀬戸」という日本食レストランにタクシーに乗って行ってました。普段は中国系タイ人の一家ですから中国料理を美味しくいただいていました(笑)

田中さん:外のタイ料理はご飯がぱさぱさで美味しくないんですよね。

池田さん:ウチの子供とかは反対。タイ育ちだから“日本のお米はもち米みたいで嫌だ”って言ってましたね。

松沢さん:孫の世代になると“日本のお米が好きだ”って言いますね。

ーー同じタイ人でも世代によって好みが変わってくるんですね。

滝澤さん:私の場合は田舎でしたから、会社の用意したタイ飯を3食食べていましたね。よほど辛い物以外は大丈夫で、そんなに苦労したという気持ちはなかったですね。

保険会社の新年会(田中さん提供)

*バンコク昔話(後編)~反日運動から都市の発展まで、今も暮らす日本人の証言  に続く

MORI GIFT SHOP

[所在地]
Nikko Hotel 3rd, Floor 27 Soi Sukhumvit 55, Sukhumvit Rd, Klongtan Nua, Wattana, Bangkok, Thailand, Bangkok
[電話]
081 434 8455

 

スポンサーリンク
スポンサーリンク