1932年のクーデターは、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させた。プラチャーティポック王(ラーマ7世)は最初この改革を認めたが、その後、10歳の甥アーナンタ・マヒドンに王位を譲渡した。退位の際、プラチャーティポック王は、統治者の義務とは万民の利益のため統治することであり、限られた小数のためではない、と言った。
1940年に日本軍が仏印に進駐すると、国境は日本軍とフランス軍残党の戦場となり、タイは国境防衛のために介入、12月には戦闘となったが翌年1月に講和を締結した。これ以後、アジア地域に拠点を欲する日本はタイに接近、タイもこれに応じて日泰攻守同盟条約を締結。1942年1月25日に米英両国に対して宣戦布告し、大東亜戦争(太平洋戦争)に枢軸国として参加したが、1945年に敗北となった。
アーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)は翌1946年に多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。彼に続いてプーミポン・アドゥンラヤデートが即位し、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。日本の敗北以来、米英を支持した自由タイ(Free
Thai)というタイ人の団体の支援によって、泰米関係は軍事面に置いて非常に親密な関係を保っている。
冷戦期は、ビルマ、ベトナム、カンボジアおよびラオスのような近隣諸国の共産革命に脅かされ、タイは共産主義の防波堤として米国の支援を受け、東南アジア条約機構(SEATO)の一翼を担った。ベトナム戦争では米国側に立ち、ラオスおよびベトナムへの派兵を行い、北爆のための空軍基地の開設も許可した。また、タイは米軍の補給・休養のための後方基地でもあったため、バンコクをはじめとしてタイは経済的に発展し、リゾート開発も進んだ。東南アジア諸国連合(ASEAN)の積極的な参加国でもある。
ラーマ9世期のタイが立憲君主政体であったのは名目上であり、1992年の選挙までの間、短期間の点々とした民主主義以外は、一連の軍政(最も顕著なのはピブーンソンクラームとサリット・タナラットによる)に動かされた。1992年の民主選挙以来のタイは、政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった。